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(new) 叱責で失敗しないための心得 Name: IEDI [2008/12/07,19:21:41] No.6 Reply
・言葉使いに注意する。
・相手に敵意を持ってないことを示す。
・不確かなことは質問して確かめる。
・相手の言い分に出来るだけ耳を傾ける。
・忍耐強く、いらいらした態度を取らない。
・相手が感情的になり、反抗を押し通さないよう配慮する。
・相手が間違っている、自分は正しいという先入観をもたない。
・できるだけ短時間にする。
・ユーモアと微笑みをいれて行き詰った雰囲気を作らない。
・例話やヒントを加えて、具体的な叱責を行う。


(new) 斉藤孝 「賢者はかく語りき」 より Name: IEDI [2007/02/11,22:53:41] No.4 Reply
仏教は、釈迦により、理論化や体系化されたものではない。仏教は、釈迦の死後、紀元前1世紀頃からの弟子達により体系化されたようである。

教えを請いに来る者があると、待機説法と言って、釈迦は、質問をさせて答えた。教えを請いにきたという機縁によって、相手の質問の内容や理解のレベルに応じ、相手にあわせて答えた。

釈迦のことを仏陀と呼ぶが、これは神ではなく、「悟りを開いた完全なる人」という意味であり、同時にそれは、誰もが仏陀になり得るという意味でもある。

つまり、釈迦は、絶対者ではないのである。

また、釈迦の死後、仏教の布教の方法には、他の宗教と比べて特徴があった。ヒンズー教、イスラム教、キリスト教、全ての大宗教がそれぞれの言語でしか布教されなかったのに対して、仏教だけは、言語の枠を超えて翻訳され、どんどん外に出された。

週刊ポスト 2007.2.2 より 抜粋。



(new) イギリス・アングロサクソンの気質 Name: IEDI [2007/02/11,22:39:29] No.3 Reply
「イギリス人は生まれつき、世界の主人たるべき不思議な力を持っている。彼はあるものが欲しいとき、それが欲しいということを彼自身にさえ言わない。

彼はただ辛抱強く待つ。そのうちに彼の欲しいものの持ち主を征服することが、彼の道徳的、宗教的義務であるという燃えるような確信がどういうわけか彼の心に生じてくる。

そうなると彼は大胆不敵になる。貴族のように好き勝手な振る舞い、欲しいものは何でもつかむ。小売商人のように勤勉に、堅実に目標を追求する。それが強い宗教的確信や、深い道徳的責任感である。

そこで彼は効果的な道徳という態度を決して失う事がない。自由と国民的独立を振りかざしながら、世界の半分を征服し併合する」。

皮肉屋:バーナード・ショーの『運命の人』から引用。


日本の数学のレベルは世界一、しかし、さらに、もっと大切な価値は? Name: 渡辺 穣二 [2006/12/11,00:17:19] No.1 Reply
水は高いところから低いところへ流れるように、数学も高い国中国から低い国日本へと伝わってきた。それがハッキリしてきたのは大和朝廷の初期のころであった。すなわち古代の日本人は文学や仏教と一緒に数学も抱え込んだのである。

このことはすばらしいことであったが、当時の日本人の生活の中で必要なものの一つに数学が入るほど日本人の文化水準は高くはなかった。したがって、庶民の中に入り込むことは、なかったようだ。数学を学習する人は、日本人の中のほんの一部の人たちであったのである。

人々の、それも庶民といわれる人にまで数学が入り込むのは室町時代のころからであろう。日本という国に数学が浸透していきそれが次第に速度を増して、江戸時代が最も盛んであった。江戸時代末期には日本全国に2万軒以上の寺小屋が存在していた。

そこでは六歳から大体6年間ぐらい「読み・書き・そろばん」を教えていた。この数からして、日本中の町や村にはすべて寺子屋があったことになる。町の商店では丁稚奉公の子供に番頭たちが寺子屋と同じことを教えていた。その程度の知識は生活していくうえで必要であったからである。

ともすれば、現代の人たちは最先端の学者のレベルの高さで国のレベルを考えがちだが、普及の度合いや、数学を職業にしていない普通の人々のレベルを国のレベルにするのが当然であろう。その意味から考えると、江戸時代における日本の数学のレベルは世界一であったといえよう。

以上は、「日本人と数 江戸庶民の数学」 佐藤健一 著  株式会社 東洋書店からの抜粋であるが、日本の温度差のある厳しい気候、変化に富んだ風土が、我々日本人の精神を容赦なく鍛えてきたのだと思われるのである。

発展途上国への援助に従事していると、自国の言語で自国民を教育できるというのは、実は、たいへんに恵まれたことであると言う事が分かる。数学、理科、どれをとっても初等教育から大学まで日本語で教育できるというのは、実にすばらしいことなのである。

我々現代の日本人が我々の祖先の歴史や文化をもっと素直に理解することができれば、日本の文化が提示する様々な側面が、これからの世界にとって重要な価値をもっているということが分かるのではないだろうか。

最近話題になっている「もったいない」というのもそうであるが、実は、本当に価値があるのは、「どうでもよい、いろいろあるんだ」という認識であり、それをあるがままに認める態度や価値観である。

欧米からみると一見、理解できない日本人の宗教への感覚、「どうでもよい、いろいろあるんだ」という「いい加減さ」がたいへん、積極的に重要なのである。我々日本人はこの考え方や感覚を無意識に体得しているために、キリスト教やイスラム教世界の考え方をも容易に受入れてしまう。「いろいろある」と思ってしまうからである。しかし、本来、一神教は、国連決議で禁止すべきと言われても仕方がないほどのとんでもない「非寛容」という問題を内包している。世界の宗教の8割が多神教であり、もともとギリシャ神話もその他の妖精たちも当時の人々にとって大切な神々を包含する宗教であり、人類の世界は、本来もっと寛容な宗教で満ち溢れていたのである。

我々多くの日本人が本質的に持っている「どうでもよい、いろいろあるんだ」という実はたいへん尊い考え方があるが故に、一神教に起因した狭量な考え方にまで寛容である。(筆者は、日本人のキリスト教徒は、その本質において、かなり欧米のキリスト教徒らと異なると考えている。)

しかし、これからは、我々日本人は、この「どうでもよい」という考え方に積極的価値を認め、明確に世界に伝達すべきなのではないだろうか。


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